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2017-10-31

とったぜ、健康保険。

とったぜ、健康保険。

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区役所の出口へ向かって歩きながらフィルムケースに新品の保険証を差し込むと、無敵感がじわじわと湧き上がってきた。浮いた気持ちのなかで、今日こそは外で飲んで帰ろうと決める。駅前に飲み屋がたくさんあることは知っていたけど、なかなか一人では入ろうという気にはなれず、これまでココイチとマクドナルドとドトールとラーメン屋にしか行けていなかったのだ。

だがしかし今日の自分はこれまでと違う。自分で取得した健康保険が背中を押してくれている。今日は入るぞ飲み屋。強気に入りやすそうな店を探し歩いた。

カウンター席だけのおしゃれな店をちらほら見かける。でもガラス越しにスタイリッシュな男女が楽しげに話しているのが見えて入りづらい。かといって大衆居酒屋は盛り上がっている様子で入りづらい。日が落ちるのとともに気持ちが陰ってくる。

もう家に帰ってしまおうか、ココイチで済ませてしまおうか、としょぼくれてきた頃、かわいらしい名前の店を見つけた。ここにしようと即決したものの、扉におく手は重い。超ディープな感じで自分なんかは場違いだったらどうしようと不安がおそう。一旦手をはなし、周辺をうろうろしながら心を落ち着け、気持ちを奮い立たせてぐっと扉を押した。

 

店内には70代くらいのおじいちゃん店主がひとり。4人がけのテーブルがふたつと、カウンター席が5つほど。客は自分のほかにおらず、窓際に置かれたヤカンがひとつ、絶え間なく蒸気をふいている。

「いらっしゃい、ひとり?」

「ひとりです」

人差し指をたてて、カウンターの端の席に腰を下ろす。

予想はよい方向に裏切られた。ほっとした。ふたりだけの店内、おじいちゃんはテレビにうつる野球の試合に夢中だ。AMラジオとテレビから同時に同じ試合の中継が流れていてほどよく騒がしい。

 

ビールを頼み、時間をかけてちょびちょび飲む。あっつあつのおしぼりは木製の船に乗っていて、箸置きは陶器の魚(目が点)、コースターはふたつ、革製のキリンのコースターと紙製のお店オリジナルコースター(店主の似顔絵入り)が置いてある。どれも気取ったところがなく親しみやすい。年季の入った様子の店内はすみずみまで店主のものらしい。なんだか家に遊びに来たような気持ちがする。

「お通し出すからね、ちょっと待ってね」

しばらくして出てきたお通しのボリュームには驚いた。ごま油風味のほうれん草のおひたし、一口サイズのサクサクハムカツ3つ(しょっぱい)、とりもも肉のカラアゲ3つ(これもしょっぱい)。もしかして店名にかけて、しょっぱくしているのだろうかと疑る。「おつまみはこれで十分かもね」とおじいちゃんが笑う。

 

Twitterでも見ようとポケットから取り出した携帯は電池切れだったので、代わりにリュックから文庫を取り出し、1章を読んで、お通しを食べて、ビールをなめ、また1章を読んで、お通しを食べを繰り返す。そのうちアルコールが身体にまわり、耳から頬にかけてじんわり熱を帯びはじめる。手のひらを頬に押しあてて、その熱を冷たい指先へ逃がす。

 

もしも隣に恋人がいたら、恋人の手をとって自分の頬に当て、にんまりして肩に頭突きでもして、照れかくしに残りのビールを一気飲みして、帰り道は手をつないで、あたたかい家でケトルを沸かしてお茶を淹れようとしたらブレーカーが落ちて、きゃっきゃ笑いあって――(以下略)

 

 

 

2時間をかけて、2杯のビールとお通しと牛すじの煮込みをお腹にいれた。2杯目を頼む頃にはテーブルも埋まって店内は賑わっていた。

お会計を頼むと「もっと本読んでゆっくりしてけばいいのに」と店主がやさしく笑った。「へへ、また来ます」と返事をして領収書をもらって店を出た。

 

 

 

2,380円。

 

https://tabelog.com/tokyo/A1317/A131702/13065512/

 

 

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